

あるがまま、という言葉が好きです。
「ありのまま」もよく聞きますが、「あるがまま」に私はより惹かれます。
どちらが良いとか悪いとかではなくて、好みの問題です。
我が子の不登校をきっかけに心理や真理を学び、心のクリアリングを重ね、今たどり着いている「揺るぎない幸せの形」・・・
それは、ひとことで言うと「あるがまま」でした。
「あるがまま」という言葉から、自分の中にあるポジティブもネガティブも分け隔てなく包み込む深い優しさと、「ただ在る」という静けさを、私は感じるのです。

あるがまま。
優劣、上下という比較(相対)の世界から抜け出し、ただ「あるがまま」にくつろぐ。
どこかに行こうとしなくていい。何者かになろうとしなくていい。揺れ動く心もそのままに。
そんなくつろぎの中で、起こる出来事をそのまま眺め、流れに身を任せる。
「無限に広がる自由」は、そこにあるのだなあと実感しています。
しかし私たちは、「あるがまま」を徹底的に否定される教育を受けてきました。
変わりなさい、周りに合わせなさい、向上しなさい、達成しなさい・・・
そのようなメッセージを浴び続け、ほとんどの人が「あるがままの自分ではダメなのだ」と思い込み、自分の解釈する「良しとする型」に無自覚にはまり込んで生きています。
すると、ボタンを掛け違えたかのような「ズレ」が生じ、行き詰るときがやってきます。
こんなに頑張っているのに、真剣に生きているのに、なぜだろう。
これ以上どうしていいか分からない。八方ふさがり。

そこで「自分の心と向き合う」という視点に立つ人がカウンセリングや心の学びに取り組み、私もその段階に来ている方々とご縁をいただきます。
しかし、自分の心と向き合うことに真剣にコミットすればするほど、実は「スッキリした」では済まされません。なぜかというと、心に封印されている「闇を見る」というプロセスに直面するからです。
それはとても勇気がいることですし、怖さも伴います。
しかし、そこに直面した人に「おめでとう!ここまで来ましたね」と私は言いたい。
そこを通り抜けて、そこを通り抜けたからこそ見える景色が確かにあるからです。

ここで私がお伝えしたいのは、「闇を見る」ことはとても尊く、本当の意味であなた自身が救われる取り組みである、ということです。
闇は怖いものではありません。闇は忌み嫌うものではありません。闇の奥に、闇そのものに宝があります。
その宝と出会う(取り戻す)ために最も大切なこと。それは、あなたがその「闇」にどんな眼差しを向けるか、です。
では、「闇を見る」とはどういうことなのか?「宝」とは?「眼差し」とは?
